コーラートにある叔父の家には熱帯の植物が茂る大きな庭があった。
広大な敷地の周りを高く長い壁がかこっていた。
その壁の上には割れガラスが刺されていて、その壁を越えようとするものを完全に拒絶し、凶暴に威嚇した。
当時コーラートに住む、おそらく唯一の日本人であった叔父家族は広い邸宅と広い庭の中に数人のメイドと運転手と暮らしていた。
母と私と弟の3人が夏休みのほとんどをタイの叔父の家で過ごすことになったのは1978年のことだ。
叔母はいつも優雅に話し、上品に笑った。
四歳と二歳のいとこの女の子がいた。
叔父は朝から午後2時ころまでを会社で過ごし、スコールが降る少し前には帰宅した。
毎日午後にはきまってやってくる大雨で道路が冠水するためだ。
小一時間の雨をやり過ごすと庭の植物の緑が鮮烈に映えた。
門の外は舗装されていない埃っぽい道路で、外国人の多く住む地域だ。
数百メートルも離れると気取った町並みは途絶え、ローカルの人たちが営む食堂や雑貨店の立ち並ぶ田舎の風景に変わる。
はだしの子供たちが走り、安っぽいプラスチックの椅子に座った年寄りは日がな道行く人や車を見てすごした。
サトウキビを満載したトラックがわだちにタイヤをとられながらゆっくり進み、バイクは白煙を巻き上げて走り去った。
毎日雨が上がると、メイドが椰子の実の皮をナタで器用に剥いてジュースのなかに氷とカルピスを入れて飲ませてくれた。
近くの市場の買い物についていくこともあった。
生きた鶏や見たことのない形の野菜が売られているのを見るのはいつも楽しかった。
ここで見た風景、感じた風、次々に来ては去る匂い。
そしてなぜか感じる開放感が私の海外での原風景になった。
2週間が経った週末にバンコクに引っ越すことになっていた。
叔父の勤務先がバンコクの中心街になるためだ。
引っ越しのすべての作業は業者がこなしたがその日はやはりみなそわそわと気ぜわしかった。
荷物を積んだトラックが先に出発し、夕焼けの田舎町を後にした。
10人ほど乗れる大型のバンタイプのタクシーの中でバンコクの戒厳令の話をしていた。
夜中の12時をすぎると軍の検問所があちこちに設けられ危険だという話だ。
暮れてゆく大地を切り取ったように一本の道路が走るだけの風景が延々続く。熱帯なのに植物が見当たらない。
バンコクに近づくにつれ起伏にとんだ風景に変わり、川や丘、鬱蒼とした森林がヘッドライトに浮かび上がった。
数時間後についたバンコクはむせかえるような暑い空気に排気ガスが混じる大都会だったが、どこかのんびりした雰囲気の街だった。
郊外だったからかもしれない。
ホテルの部屋に着くなり眠くてベッドに倒れ込んだ。